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考えや感情、感覚などは、伝える努力を諦めた時点で終わり

4 min

こんにちは、年末に向けて危機感のない男ことshotaです。

昨日に引き続き、ブログネt..おほん、自分の考えが色々まとまりそうだったので、ここに書き残しておこうと思います。

昨日は12月にあったメンタルげき落ちくん事件について、色々と思うところをつらつらと深夜に書き連ねたのですが、今回は最近常に頭の片隅ある「コミュニケーション」についてお話しするつもりです。

面白い読み物になるかは分かりませんが、よければ最後までお付き合いください。

考えや感情、感覚などは伝える努力を諦めた時点で終わり

コミュニケーションって難しいですよね。とっても難しいです。僕はめちゃめちゃ苦手です。

なんと言うか、得意な日と得意じゃない日があって、得意じゃない日にコミュニケーションを取ろうと思うと、どうも上手くいかなかったり、話したくなくなったりしてしまいます。

これが悩みでフリーで働いていると言うのもあるのですが。

そう、そんなコミュニケーション下手な僕にも社会で働いている時期がありました。

コミュニケーションの必然性

会社というのはほぼコミュニケーションによって回っています。

上司から部下へ仕事内容が共有され、完了したら上司に報告。お客様への営業や挨拶、色々な取引。全てコミュニケーションです。

なので、会社ではこの「コミュニケーション」はもう必須中の必須。何をするにもコミュニケーション。挨拶も、質問、お礼も、何から何までコミュニケーション。それはもう辛い。話したくない日でも話さなければならないと言う苦痛。

今思い返しても辛い。

ですが、このコミュニケーションがないと、組織として成り立ちません。だからなくてはならないもの。というか、取る必要がる行為なわけです。

強制と自由と、渇望と拒絶

例によって、僕はコミュニケーションが苦手です。

でも、会社という組織においてコミュニケーションがないと会社として成り立ちません。しかも、業務が回りません、嫌いな人だから話さない。そんなのが罷り通ってしまうのは学生まで。

これを社会経験を通じて学びました。えぇ、とても遅いです。しかし、遅くてもそれを知ることができて良かったと思います。

人間はコミュニケーションが必要な生き物です。自分のはるか先祖の人々は、生きていく上で群れを作り、つがいを作り子を作った。そうやって生きてきた生物なので、コミュニケーションを取ると言うことは、遺伝子に刻まれた本能的欲求でもあるんです。

でも、人間というのは欲張りなもので、当たり前の様に与えられると、その大切さに気付けなくなっていくのです。僕はまさにそれに当てはまりました。

求めても手に入らないもの

ひたすらコミュニケーションを与えられて生きてきた僕は、その重要性に気付くことなく、会社をやめて一人になりました。

1年ちょっと、ひたすら一人で活動してきた中でようやく気付きました。人と話したい。触れ合いたい。めちゃめちゃどうでも良いことを言い合いたい。そんな欲求が生まれていることに。

しかし、人とのコミュニケーションをたった自分には、それを望んでも手に入れることはできませんでした。

ひたすら要らないものだと距離を置いてきた代償は、当たり前に犯された僕に、とてつもなく重い後悔を生み出しました。しかし、どんなに望んでも、それまでの様なコミュニケーションは取れないのだと、気付くのです。

何が嫌で、何なら良かったのか?

何が嫌で何が良かったのか、ひたすら考えました。

どんなコミュニケーションが嫌?どんなコミュニケーションが欲しい?

ネガティブなやりとりは必要ない

一番嫌だったのが、怒りや嫉妬、他にも微妙な居心地の悪さとか、そういったネガティブな感情を含むやりとりでした。

特に怒り。これだけは本当に嫌だった。僕は一般的に見ると、人よりも人の感情に敏感なタイプな様で、全ての感情に敏感というより、居心地の悪さに対してはすごく敏感な様でした。

だから、怒りなどんの負のエネルギーによって蹂躙された部屋や、その場の空気に対しても居心地の悪さを感じてしまいます。

上手くできない部下を怒鳴りつける上司。怒鳴りつけられて落ち込む部下。考えただけで気分が落ち込みます。こういう負のエネルギーが、とても辛い。

誰かに何かを思われている様な気がする

嫌われているんじゃないか、とか、行為に思われているんじゃないか、とか。そういう予想を色々勝手に立ててしまうんですよね。それも、相手の対応一つで色々な感情が伝わる様な感じがするんです。

もうここまでくると単純な被害妄想。でも、例えば何かを頼むときに「忙しそう」とか「暇そう」とか「話しかけてほしくなさそう」とか「急いでそう」とか、そういう色々な感情を感じてしまいます。

これは多分、幼少期にひたすら父親の顔色を窺いながら過ごしていたせいもあると思いますが、ここまで根強く残ってしまうとは。。。教育はやはり慎重に行わないといけませんね。

まぁ、そんなわけで、いろんなことに対して「あれや」「これや」と勝手に感じ取ってしまう様です。だから、人を遠ざけたかった。

いろんなことを共有したい

逆に必要なコミュニケーションは何かって考えた時に、自分のことを見てくれる人が欲しいのかもなって思いまいた。

人の考えとかって全くもって伝わらないんですけど、それが伝わるの様な関係の人が一人でもいれば、またそういうコミュニティがあればいいなぁと。

最近の自分にはそういうのが全く無かったんですよ。少し前まではゲーム内の人とわいわいしたり、知り合いとお酒飲んだり、恋人とどこかに行ったり、そういうコミュニティがあったおかげで「一人で作業」していても、コミュニティがあったので気にならなかったんです。

でも、今はそう言うのが無く、というか意識的に減らしてしまったんです。なんか辛いなって思ってしまって。

そうしたら感情が爆発して、昨日の記事で書いたみたいに色々溢れるに至りました。生きていくのも大変ですね。

人間界において、必要なのは伝える努力

と、ここまで色々と回り道をしましたが、タイトルの回収をしていきます。

『考えや感情、感覚などは、伝える努力を諦めた時点で終わり』というのは、最近の僕の思いです。

人って、パソコンみたいにコピーペーストして感情や感覚の共有が出来ないし、思いついたことを「ネットで送って」考えを共有したりは出来ないんです。だから、他人はどこまで行っても他人。どんなにがんばっても、自分以上にはなれないんです。

だから、遺伝子に刻まれたコミュニケーションに対する渇望へは、「伝える努力」によってコントロールしながら「共感」していくしかありません。

人と人とが難しいと言われる所以かもしれません。

伝える努力を放棄したら

僕の周りには、本心を伝えずに本心を感じ取って欲しいって人がたくさんいます。

これが正直結構辛いです。だって、自分の話はしないのに、勝手に感情をゆらす。伝える努力をしないのに、感情だけぶつけてくる。しまいにはぶつけることすらも諦める。

僕はこれが理解出来ない。伝える努力をしなければ伝わるはずのない自分の気持ちを、そもそも伝える努力を放棄するということ。自分で選んで仲良くしているのに、どうしてそんな選択をするのか全然分からない。

だからこそ僕はあの手この手を使って感情を色々なところに残しているのに。

渇望は渇望で終わる。

ま、だからかもしれません。これは僕の欲求。

コミュニケーションと距離を置いた、自分への罰。いまだに向き合い方の分からないコミュニケーションとの対峙を迫られていますね。

ひたすら自分が求める、よく分からない「コミュニケーション」への渇望と、叶えられない自分の欲求。人間って感じです。他人に求めたものは、他人ではなく自分で解消するしかない。

きっとそういうことなんでしょう。

結局自分は、他人に求めすぎている。

そのことに気づいた、というところで今回は以上にしようと思います。

ここまで読み進めていただき、ありがとうございます。

また別の記事で。

shota

shota

客先常駐エンジニア(SES)から、フリーランスのWEBライターへ。
現在27歳、在宅でライターの仕事をしつつ、25歳の頃に辛かった経験などを元に「25歳の悩める人」へ向けて、情報を発信しています。

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